パウリーニョが栃木に来ないわけ

タイトルだけ読んで「なんのこっちゃ」と思う方も多いと思いますが、

サッカーJ2リーグを中心に活躍しているブラジル人のパウリーニョ選手(※wikiだと3番目ぐらいの人です、パウリーニョはありがちな名前です)という方がいらっしゃいまして、2013年は栃木SCチームキャプテンも務めました。キャプテンというのはキャプテンですから「疲れても体調が悪くてもそぶりも見せない体力と精神力、鋭い戦術眼、そしてなにより折れないハートの持ち主、それらをチームメイトに伝えて意思統一と鼓舞を行う、それを年間通じて行う」そういう選手です。栃木SCは2013年の資金難から彼を有償移籍で手放して、2020年になってもチームには戻ってきません。

個人的に本人に聞いてみたことがあるのですが「栃木には遊びに行くよ」「選手として栃木に戻れるものなら戻りたい」(※口先だけかもしれないが分からない)と言ってたぐらいで、じゃあなぜ戻れないのかというのは、

 

戻りたい理由

・本人の意思

・サポーター(ファン)の意思

戻りたくない(戻らせたくない)理由

・クラブ側の大人の都合

 -年俸が高い

 -怪我が多くて年間を通じた戦力として考えにくいため、昇格を目指す栃木SCとしては勝ち点の取りこぼしはあまりに痛く、結論としては選手として扱いにくい

 -戦術理解度が低い(守備的な位置の選手なのに時々攻撃参加してしまうことがあり、結果として得点することもあるがチームとしては扱いにくい)

 -通訳の年俸が高い(ブラジル人1人のために通訳1人雇うのは、弱小クラブの栃木SCとしてはあまりにコスパが悪い…というか今年ブラジル人1人だっけ…)

 -意思疎通(特にピッチ上)を考えると流暢な日本語を話せない選手はあまり使いたくない

 -ブラジル人は複数人雇うと仲良くなり個々のモチベーションも上がるが単独では逆に孤独を感じモチベーションが下がる

・実のところ本人が戻りたくない

 

こんなところだろうか。

というのはあくまで「個人の憶測」であって、正確なところはもっと本人やクラブスタッフに質問して記事にしてくれる記者さんというかマスコミがいてくれると、選手やクラブへの理解度が上がって試合への関心も増して観客が増えて…ってなると思うのだけど、そうならない、そういう記者さんがいない(実際いるにはいるのだがそこまで深く切り込んでくれる方ではない)のは所詮「日本で二番人気のプロスポーツ」の「二部リーグ」で「上から数えると38位ぐらいのクラブ」だからなんだけど、ニッチな市場とはいえこういう需要を満たすことによる相乗効果はちゃんとあるだろうし、ストレートに言うと時給826円(※栃木県の最低賃金)よりは価値があるのではないかと思うのだけど。

なにより「そんなこと」にチャレンジする人はいないのだろうなあ。

チャレンジできる・チャレンジしたい人に限って「もっと儲かる商売があるのでやらない」もしくは「手持ち資金がないので無理」となってしまっているのではないかなあ。

大体の商売ってのはそういうものだけど、それにしても残念だなあ。

生きがい、やりがいというものを重視して生きると、ものすごく楽しいのだけど、それを失った時の落差もまた激しいので、あまり他人にお勧めできるものではないなあ、と実感したから言うのであります(何の話かは別の機会に)。

栃木SCが応援チャントを募集していたので観測してみた

個人的に気にしているサッカーチーム「栃木SC」が、チャント(応援歌)を公募していたので、遠目に見守りつつ、その内訳を軽くまとめてみました。

「軽く」なので、詳細に間違いがある可能性があるけど、誤差レベルだと思うので、まあいいやって。

栃木SCチャント公募内訳        
  邦楽 洋楽 (借用) (使い回し)  
個人 13 1 1 1 25.4%
(曲のみ) 0 0 0 0 0.0%
チーム 18 3 13 0 54.0%
(曲のみ) 9 4 0 0 20.6%
  63.5% 12.7% 22.2% 1.6%  
※応募要件「曲と詩」のため「曲のみ」は自動的に不採用  

 

個人を応援する人は「あの選手が好きなので、こういう曲で、こういう詩にして欲しい」っていう具体的な要求があるのに対し、

チームを応援したい人は割とラフに「邦楽のあの曲がいいです」「洋楽のあの曲が好きです」のような、応募用件さえ満たしてないもの、「他チームのあれがいいのでパクりたい」ものも合わせると全体の約半分もあるという、なんというかこの落差。

でも、そういう「あの曲が好きです!」というラフな意見を寄せる人は、つまり「誰がというわけではないけど、栃木SCが好きなので、自分が好きな歌で応援できたら嬉しいです」という、比較的ライトユーザーなのかもしれない。

本質的にどちらを採用すべきかと考えたら、応募要件を満たしていない意見=ライトユーザーの意見を採用するべきなのかもしれない、その方がチームの「なかなかサポーター(=ファン)が増えない」という悩みを解決するためにはいいのかもしれない。

 

ちなみに、私もちょっと(要件を守るように)応募しましたので、もし私の案が採用されるようであれば、栃木SCの未来は明るくないのかもしれません…ね。

 

P.S.

この企画自体が、昨年外部からリクルートされてきた敏腕広報担当えとみほ氏によって立案している気がしてならない。「チームを支える企画に参加することによって、チームへの愛情が深まる」という目的だと考えると、すごく腑に落ちるわけで。

ものを書こうと思う

ものを書こうと思う。

 

いや、日頃、何かしらの形で、書いてるといえば書いてるわけで。

だいたい毎日何かしらを書いている。

 

書きたいのは、腑に落ちる文章。

何かしらの物事があって、それをまとめてこういう解釈をして、結果こういう考えに至りましたって言って、なるほど!って思われる文章。

それを「腑に落ちる」ように書きたいと思うのだ。

リアルな話で言うと、A地点からB地点に行こうと思う時、

・最短距離(間のビルなどは全部破壊していく)

・最短距離(常識の範囲内で最短になるように)

・最短時間(多少遠回りでも最速で着くように)

・楽しく分かりやすく(最寄りのコンビニなどに寄りつつ楽しめるルート)

どれもそれなりに良いし、選択肢として良いと思うとは思うけど、こういうものを、例えばTwitterで書こうとすると、140字制限(※連続ツイートで回避する方法もあるが)になってしまうので、最短さえ飛び越えて「なんとなく起点と終点を繋いだ?繋げてない?文章」になってしまうことがあって、これが我ながら納得できないのだ。書いてみた文章が145文字で、選んで書いたはずの145文字を「意図したことから遠ざかるけど文字数は減る」みたいな選別の末に「140文字以内に収まりました!やったー!では投稿します」なんていう文章、書いててもつまらないし、読んでてもつまらないと思う。

じゃあどうするか。

上記の4つみたいな文章を書きたいと思う。文字数としては1,000文字以上になるんじゃないかと思うけど(既にこの時点で612文字である)、それはそれでいいんじゃないかな。

Twitterに載せるにはどうにも「筆者も読者も面白くない」文章を書くより、facebookに載せるには「で、君は、友人に、一体何を伝えたいんだい?」って思われるより、誰も読まないけど、自分が満足して、読者(いればの話である)が満足する文章を書きたい。

まあ、そういう風に思ったのは、Twitterで140文字と葛藤していて「これは文章力や説得力などの向上に繋がっているのだろうか、ただ時間と精神を浪費しているのではないだろうか」って思ったからなんだけど。

というわけで、いつ終わるか分からないけど「思ったり感じたりした事を、自分の気が済むように、自分も相手も喜ぶ文章を書けるように努力する」文章を比較的定期的に書いてみる実験、初めてみたいと思います。

 

それではスタート(1,000文字)

あるブランドについてどう思っているかにより、人は「推奨者」「無関心者」「刺客」の3つに分類されるそうです。

 

「推奨者」は、そのブランドについて良い体験を多く重ねた人。
「推奨者」は、そのブランドについて他の人へ進んで推奨を行い、コストがかかろうとも進んでそのブランドを選ぶ。満足度は非常に高い。
「推奨者」は、そのブランドから良い体験を受けると、幸せを強く感じる。

「無関心者」は、そのブランドについて、特段良い体験も悪い体験も持たない人。
「無関心者」は、そのブランドについて特別興味もないため、コストが低い方へ進んで乗り換えを行う。満足度はそれなり。
「無関心者」は、そのブランドから良い体験を受けても悪い体験を受けても、それほど印象に残らない。

「刺客」は、そのブランドについて悪い体験を多く重ねた人。
「刺客」は、そのブランドについて他の人へ進んで非難を行い、その量は推奨者の5割増しである。コストがかかろうとも進んで他のブランドを選ぶ。満足度は非常に低い。
「刺客」は、そのブランドから悪い体験を受けると、非常に不幸に感じる。

というのが、顧客満足度調査業界の世界最大手、J.D.Powerのまとめた「顧客満足度」と代表的な顧客行動です。

グラフにするとこんな感じですね。てゆか抜粋ですけど。

f:id:appleandcrescent:20150729220254j:plain

また、個人的な感覚として、人/物/サービスを非難するという行為にはある種の吸引力があるように思います。
言い換えれば、その行為が快感か不快かはさておき、その行為をするということを一度してしまうとやめられない、というか。
一方で、所得の少ない人ほど、お金を使うという行動そのものに幸せを感じる、という説もありますね。所得は関係ない気もしますが。
もちろん、所得の少ない人ほど、可処分所得、つまり無駄遣いできる金額に限りがあるわけで。

 

さて、どうすれば幸せに近付けるのでしょうか。
という、ブランドについての顧客満足度調査の話なんですけど。
この話の面白いところは、色々な形に拡張して考えることができそうだという事なんですよね。
例えば、男性の女性選びについて適用するという、やや乱暴なことをしてみると。

「ある女性について良い体験を多く重ねると、満足度は非常に高く、周囲にのろけて回り、高価なプレゼントもあげちゃうし、とっても幸せだからもちろん浮気しませんよ」なるほど!
「ある女性について悪い体験を多く重ねると、満足度は非常に低く、周囲に愚痴って周り、高い金を払って他の女に」浮気しても高くつくだけで満足度は低いとも読めますね。なるほど!
高いお金を払う対象が、次のターゲットになる女性なのか、ネオン街の話なのかは、今回は考えないことにしておきます。
「ある女性について特段体験を持たないと」これは、モテない人と読めばいいですかね。
「モテない男性は女性にはお金をかけず、他の趣味に興味を持つ。いい女性に出会ってお金をたくさんかけていい体験を一杯すれば幸せになれるのに!」という読み方ができますね。なるほど!
無理矢理拡張した割りには、真っ当な結論に至ったような気が。
一夫多妻制の話については、あれはイスラムの教えで、男女比が著しく女性過多の社会において、裕福で複数の女性を金銭的にも精神的にも満たしてあげられるのであれば複数の妻を迎えた方が幸せに…これ長くなるから今回はやめましょうね?

では、違うお題で考えてみます。「人間関係と幸せについて」
最初の話に戻りますが、「推奨者」の領域に入るほどに絆を深めてこそ感じられる幸福体験というものもあるように思います。
そもそもの相手のポテンシャル、相性などを踏まえて、自分に相応しい人と知り合うことも重要だが、絆を深めることもまた必要で、人間関係を広げることももちろん重要であるわけで。
人間関係において、見ず知らずの人から受けた親切より、「推奨者」の関係にある、知り合い・親友・パートナーから受けた親切の方が印象に残り、幸せになるとは考えられないだろうかと。
幸せに生きて行くには、より強い感動を覚えられる人間関係を築くということが、その場限りの広く浅い人間関係を築くよりも重要だ、という考え方があってもよいのではないかと。
人間関係を広げるのは大事。ポテンシャルの高い、相性のいい相手を見つけて懇意にするのも大事。一度見つけた大切な相手を離さないことも大事。
一見ポテンシャルの高そうな、相性の良さそうな相手を見つけたとしても、全ての人に改めて懇意にしていけるほど人生は長くない、という考えもあるように思います。
最終的にゴールになるのは、素敵な人と、素敵な体験を重ねることではなく、「推奨者」の領域に早く長く入り、幸福体験を長く続けることのように思います。 

 

ざっくり言ってしまえば「良さそうな相手を見つけたら早く捕まえて、長く一緒に居て、浮気をしないのが、幸せなのでは?というデータがありますよ」という話ですね。男女関係に限らず、何事も。

 

ま、あまり長いこと「推奨者」の領域に居ると、お金がいくらあっても足りませんけどね!きっと!

新国立競技場について思ったこと

時事問題ですねえ。

 

よく分からないのは、なぜ一般市民が新国立競技場について「建設費が高い」だの「デザインが良くない」だの文句言ってんだっていう話ですねえ。

 

デザインコンペで優勝した案について建設します。以上。

こういう流れでやってんでしょ?国民が口をはさむ余地ないでしょ。

基本的に行政一任で、せめて文句言うなら事前に言ってくれ。終わり。

 

デザインコンペを開いたっていうことは、ただの競技場ではなく、デザイン要素にも審査が入ります、っていう意味で、
そこで建設費をちゃんと見なかったということは、「予算度外視でデザイン重視のスタジアムをよろしく頼む」っていう意味で、
もちろん「そんなやり方でいいのか!」という文句はあろうと思うけど、「高い」とか「デザイン嫌い」とか、そういうのは専門家に一任してくださいね、というのが今回のやり方であって。

 

逆の発想をすれば、
行政一任で高いものができちゃったけど、観光客が増えて東京にお金が落ちるようになって結果よかった!という可能性もあって、
そういう流れは行政一任でないと、コスト重視になりがちな民間委託なり民間の投票なりしていては生まれないんですよね。多分。
確かに「じゃあ2,520億円のザハ案でどれだけの観光収入が生まれたんだ」って言われても、ちょっと分かりませんが。
もっと言えば、3,000億とも言われた当初のザハ案が非常に先鋭的なデザインで、仮にそのまま作ったとすれば世界的観光名所になったのでは、と思いますけどね。
先鋭的なデザインの先鋭的なとこだけ削って約500億の節減って言われても、それだったら旧国立を魔改造して8万人スタジアムにすればよかったでしょ。
付け加えるなら、そういうわけで経済効果の大きなスタジアムなので、東京はもちろん神奈川・千葉・埼玉あたりも出資して欲しいぐらいですけどね。東京も50億じゃ足らんでしょ。そういうとこは責められても仕方ないかな、とは思います。

 

難しいことは専門家が考える。
専門家は政治家が決める。
政治家は国民が選ぶ。
これが日本のやり方です。

 

難しいことを何もかも一般市民に理解させないと「説明不足」と言われる政治の流れ、どうなんだろうって思いますね。一般市民が分からないことを考えて判断できるから専門家なのです。

 

百歩譲って、やり方に文句をつけるのはいいとしても、決まった事に後から文句言うのはやめましょうよ。

りんごとみかづき

堅苦しいのは嫌いなんです。

 

「伝説めいているが、ニュートンとリンゴの話は本当である。本人の説明によると、リンゴの落ちるのを見たあと、空の三日月が目に入った。月にもリンゴを落す力があるのではないかと考え……。

リンゴが頭に当ってというのは、だれかの創作が加わったものだ。」

 

アシモフの雑学コレクションより引用。ニュートン万有引力を発見した時のエピソード。

物事の本質に気付くということは、ふとしたきっかけで気付くのであって、私にとって「リンゴと三日月」は「ふとしたきっかけ」という意味ですね。

 

まあ、三日月というのもロマンチック過ぎるようにも思いますし、もしかしたらこれさえも「舞踏会で聞かれた時用の言い回し」なのかもしれませんけどねー。

 

いつでも「リンゴと三日月」に気付けるように生きていきたいものです。

 

って、固い内容になっちゃったじゃないですか。こういうのが嫌いなんです(笑)